ストーリー(生い立ち)

はじめまして。柏原すぐるです。

広島の山あいから、
横浜・鶴見へ。

サッカーに夢中だった子ども時代。建築を学び、現場で働いた日々。そして、鶴見での子育て。
3人の息子の父親として、横浜市会議員として、今につながる歩みをご紹介します。

1985年 広島生まれ2013年 鶴見へ2023年 市会議員に初当選

まずは5つの章で。気になるエピソードは「続きを読む」から。

1985年〜|広島での子ども時代

祖父の書道と、サッカーに夢中。

幼少期の柏原すぐると祖父
大好きだった祖父と。文字を書くことは今も好きです。

自動車整備士の父と保育士の母のもと、広島の山あいで育ちました。祖父に教わった書道と、6歳から始めたサッカー。仲間と力を合わせる楽しさも、思いどおりにいかない悔しさも、この頃に知りました。

子ども時代とサッカーの話を続きを読む

幼少期

1985年4月21日、広島県にて自動車整備士の父と保育士の母の元で生まれました。

しばらくは公営住宅暮らしでしたが、自衛隊引退後に書道教室を山奥で営む祖父や祖母の近くへ引っ越してからは、兄妹と共に山あいでのびのび育ちました。

当時の記録写真
泣いてばかりの次男ぼうでした(写真右)

幼児時代から祖父から書道を習いました。今も文字を書くのが好きなのは祖父譲りです。

小学生時代

学校まで子どもの足で45分くらいだったと思います。もう歩けばやることがないので、物思いにふけったり道草したり走ったり歌ったり、今思えば充実した時間だったのかもしれません。鹿や猿、蛇や昆虫、いろんな出会いもありました。

それから、兄を真似して6歳からサッカーを始めまして、もうそれからはサッカー漬け。高学年の頃からサッカーノートを書き始めたのを思い出します。 チームやコミュニティの中で貢献する楽しさをサッカーから教わりました。

書道も6年生までは続けました。

当時の記録写真
サッカークラブのみんなと(後ろの真ん中)

中学、高校時代

サッカーをクラブチームで続けました。中学3年生の時には中国地方で優勝し、U-15高円宮杯全国大会でベスト16まで勝ち上がりました。チームで何かを実現する喜びや個としていかに闘うかというメンタリティを知りました。一方、上には上がいて、Jリーガーを夢みるもそう簡単ではないと感じ始めたのもこの頃でした。

当時の記録写真
試合の様子

高校時代は学校のサッカー部に所属し、結果としてはチームで県大会ベスト4、個人で広島県高校総体優秀選手に選出されました。ただ、高校に入って身長が止まり少なからずあった奢りから挫折も味わいました。

勉学の方では何も疑わずに高校の授業に没頭していましたが、恋愛やアルバイト、サッカーを通じてできた他校も含む仲間との親交が経験の幅を広げてくれました。

当時の記録写真
部室で仲間と(右下)

サッカー部引退後は、ものをつくるのが好きという単純な理由で建築学科を志し、高校の美術の先生を頼ってデッサンを学びました。

進路は、造形の試験を選択できて東京圏で受験費用や学費の安価な国公立という条件から千葉大学に絞り受験、2004年に同大学工学部デザイン工学科建築系に入学しました。

2004年〜|大学・旅

建築を学び、街の見方が変わった。

大学時代、スペインのグラナダを旅した柏原すぐる
スペインのグラナダで。旅先の出会いも大切な経験に。

ものづくりが好きで、千葉大学で建築を学びました。奨学金とアルバイトで暮らしながら、自分の進む道を模索。約4か月の欧州の旅は、建物だけでなく、その背景にある文化や歴史、仕組みに目を向けるきっかけになりました。

大学生活と欧州の旅を続きを読む

大学時代

正直なところ苦しかった印象が大きいです。奨学金とバイト代を原資に生活していたことも一つの背景にあります。

進学してからは、プロを目指さないと決めたサッカーを止めて、建築家になるってどういうこと?という問いを立てながら、大学の授業の他建築士事務所で働いてみたり、先輩や教授に問いをぶつけてみたり、バーテンダーの立場を通じて出会う経営者や政治家の方から話を聞いてみたりと、とにかく多感に好奇心旺盛に動き回った2年間でした。

当時の記録写真
ルームシェアして仲間と集っていました

ただ、「何かにならなくちゃいけない」というお題が自らを苦しめました。

2年次も終わりが見えてくる頃には何のために3年生やるの?と多少はマシな問いを立てれるようになり、思いました。

  • 日本古今東西の名建築を訪ねてみたけど、近代建築のルーツである西洋建築を知らない。一度はこの目でまず見たいよな。机上じゃ分からない。
  • そして、本気で建築家になるならお金もないし地元だろう、だったら広島で一番かっこいいと思える建築家を訪ねよう。

結果として、建築家の谷尻誠さんを訪ねて僅かに仕事を学びつつ、バイトで資金をつくって約4か月間は欧州を旅してまわりました。

「建築から一度離れよう」

それが、旅から戻って復学する頃に心に浮かんだ本心でした。

行って気づいたんです。雑誌に載る奇抜な新しい建築が、実は景観調和的で歴史ある建造物に囲まれている事実に。浮き立つような図と地の関係性。ただ、つくるのではない。文化であり制度であり、仕組みや歴史感や価値感の違い。分かったのは、自分自身に内在する価値観の欠如でした。

その後は、必修科目以外に経済学や心理学、デザインなど気になる授業を履修したり、本を貪り読んだり。一方で、「菜根譚」というお店に出戻って、カウンター越しにいらっしゃるお客さんに自分の仮説をぶつけたりしていました。

当時の記録写真
ルーマニアのブラショフ。自然と街並みが調和して、最も心地よく感じた街。

また、社会課題に取り組む個人をバックアップするプラットホームを意図して、学生団体を立ち上げ運営していた時期もありました。けれど、個人の熱よりも「社会善」や「あるべき姿」が先行する頭でっかちな考えで、年次も3年から4年へと移り結局は自らの「どうしてもやりたい何か」ではなかったことから、団体の活動としても尻すぼみとなってしまいました。今でもその時の仲間には申し訳ないと思っています。
この経験から、何かを立ち上げるのであれば自分自身の確かな熱なしに人を巻き込んだらダメだと刻んでいます。

2009年〜|建設の仕事

机上の理想を、現場で形にする。

ヘルメットと作業着姿でコンクリート検査に立ち会う現場監督時代の柏原すぐる
現場監督時代の一枚。会社名・現場情報はぼかし加工しています。

大学卒業後は、大阪で建設現場の監督に。2014年からは不動産・建設プロジェクトのマネジメントに携わりました。予算や工程を管理し、立場の違う人たちと調整する。説明を尽くしながら仕事を進める大切さを、現場で学びました。

現場監督・プロジェクトの仕事を続きを読む

2009年以後~社会人の初期~

大学卒業後、現場監督になりました。簡単に言えば建設現場に常駐して、設計図を元に重層下請け構造の建設生産体制をマネジメントし、使って喜んでもらえる建物を引き渡す仕事です。

建築家じゃなかったの?と自分でも振り返りますが、どれだけ完成済みの建物に訪れても、作っている過程を全然知らないし、知りたいなら1番初めに飛び込んだ方がいいよね。しかも、大勢で成し遂げるからサッカーやってきた自分とも相性いいかも。それが直感的に思ったことでした。

机上と現場は違うねん(…!?)

新卒で準大手の建設会社に就職し、すぐに大阪に配属されました。

大学時代に少なからず理想論にある種の心地のよさを感じていたがゆえに、実際の現場現物のものづくりを目の当たりにして、面食らったというのが正しい描写なのではないかと思い返します。簡単に言えば、食らいついていくので必死でした。初めての朝礼で約300人ほどの関係者を前に、緊張を押し殺すように声を張り上げて挨拶したのが懐かしいです。

仮に計算や理論が正しかったとしても、現実の生産過程においては誤差や天候、気象条件、人為的なミスなど多くの不確定要素が存在し、それらを想定しながら、実際に組織や人を動かしながら生産を進めていくことは、学問とは全く異なる現実のものづくりそのものでした。

建築に関する記録写真

怒られたり時には喧嘩をしたこと、夜な夜な単管(鉄パイプ)を運んで一輪車を押しながら悔しくて泣いたこと、現場で昼寝したことや「お疲れ様」と肩を揉まれてうれしかったこと、「お前の話なんか誰も聞いていない」「お前が出てくか、俺が出ていくかや」と言われたこと…エピソードを挙げればキリがないですが、それらが血肉になって今に活きていると信じています。

鶴見への転居と、プロジェクトマネジメントの仕事

その後、2013年に横浜市鶴見区へ移り、2014年に外資系不動産建設会社へ転職しました。

プロジェクトマネージャーは道先案内人であり、透明性と説明責任の伴う要職

2014年より以下のような主に不動産や建設(新築や増築改築、移転に伴う)プロジェクトにおいてプロジェクトマネジャーあるいはアドバイザーとして、諸先輩やプロジェクト関係者に支えながらも数多のプロジェクトを成功に導きました。(顧客並びにプロジェクト例:外資系製薬会社や外資系人材会社日本支社に関するプロジェクト、資産運用会社が取得したアセットのバリューアップに関するプロジェクト、ブライダル事業会社による複合施設プロジェクト、大手金融機関における施設、中核市のPFI事業、地方公共団体の地域経済循環向上事業、大学院大学におけるPFI事業など)

関係することの喜び。島根県隠岐諸島海士町に新拠点「Entô (エントウ) 」 OPEN!!

これらの経験により、数十億規模の予算管理や入札やプロポーザルといった多様な手法による調達実務、工事や設計と言った億単位の契約や企業間交渉、数年にわたるスケジュールの管理、数十社が関わるプロジェクト関係者との利害調整や折衝等の実務を身につけました。また、民間企業であれば株主や投資家、地方自治体であれば議会や住民に対しての説明責任と透明性が求められますので、それらを下支える実務経験ができたことも強みです。一方、社内では信頼を積み上げることにより、部門の経営マネジメントに関わる経験を得ています。

2013年〜|鶴見での子育て

父親になり、未来が身近になった。

赤ちゃんを抱いてミルクをあげる柏原すぐる
子育ての日常が、将来世代を考えるきっかけになりました。

長男が生まれた2013年に、横浜市鶴見区へ。3人の息子の子育てを通じて、子どもたちが大人になる時代を具体的に考えるようになりました。仕事と並行して政治や政策を学び、地域では育児講座やサッカークラブの運営にも取り組んできました。

子育てから政治を学び始めた経緯を続きを読む

子育てを通じて、政治や政策を学び始める

出生届に行って驚いたのは、子供たちが2013年とか2017年生まれだという現実でした。この子たちは2100年に生きている可能性がほんとにあるなと。例えば子供が30歳の時は2047年だなとか、孫が成人するのは2060年代かなといった具合に自分以外のタイムラインが具体性を帯びてきたわけです。

全ての仕事は優劣はなく、それには必ず意味があると思っています。でも、だからと言って、大人の都合だけで仕事をしていて、将来世代への責任を果たせるだろうか?と思えてきたのです。自己実現という個別最適が将来世代の負担の上に成り立っているのだとしたら、それはやっぱり看過できないんじゃないかと。

そのような疑問から仕事と並行して、2016年から 日本政策学校 9期生として政策や政治を学び、2017年に修了しました。

地域では2018年より育児講座の講師(こちらのブログや記事参照)を務め、幼児や小学生年代のサッカークラブを誰もが参加できることを大事にボランティア運営しています。

2018年には、当時東京都議会議員だった音喜多駿が主宰した政策室OPENを首席で卒業。

2019年〜|政治への挑戦

一度の落選を経て、横浜市会へ。

横浜市会の予算特別委員会で質問する柏原すぐる
横浜市会での質問の様子(2026年3月)。

2019年、鶴見区から横浜市会議員選挙に初めて挑戦し、落選。2023年4月に初当選しました。子どもたちが大人になった時に「もう手遅れ」と言わせたくない。その思いが、政治に取り組む原点です。

政治への挑戦と原点を続きを読む

2019年4月横浜市会議員選挙に鶴見区から挑戦するも選外。 当時のことはこちらのブログで綴っております。

「お父さん達は何をやってたの?もう手遅れじゃん」

子どもたちが大人になった時に、そんなふうに言わせるわけにはいかない。と強く思っています。

2022年8月に日本維新の会 横浜市政鶴見区担当に就任。

2023年4月の横浜市会議員選挙(鶴見区)で初当選しました。

今の活動や、詳しいプロフィールはこちら

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最後までご覧いただきありがとうございました。

日本維新の会横浜市会議員団

柏原すぐる

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